2016年 06月 05日
【自罰的でない省エネ思想への待望論】 |
日本の実質GDPは、オイルショック以降2.5倍に増えているけれど、
産業部門のエネルギー消費量は2割近く減少している。
オイルショック以降、官民を挙げて省エネ努力をした結果、
40年間に約4割エネルギー効率を改善し、諸外国と比べても大変良い状況。
一方民生部門は大きく増加(業務部門2.9倍、家庭部門2.0倍)している。
エネルギー需給の安定の為には、民生部門の対策が必要。
その民生部門のうち業務部門の建築については、
床面積あたりのエネルギー消費量は、近年横ばいから改善の傾向。
一方、家庭部門では世帯あたりエネルギー消費量は横ばいから改善だが、
1966年度で世帯あたりエネルギー消費量は18,000メガジュールだったが、
2013年度では38,000メガジュールになっている。
こうした文脈から必然的帰結としてゼロエネハウスということが志向される。
こういった考え方が出てきた背景は当然ながら、世界的なエネルギー問題。
エネルギー大量消費で地球環境を破壊してきた西欧由来の社会システムが
サスティナビリティということに直面して、打ち出してきた思想。
抜けがたく原罪思想がそこには感じられ、総懺悔的な省エネ論が叫ばれる。
エネルギーを世界中から収奪してきた西欧世界が、
今度はその考え方では行き詰まりが来るのだと、世界を「指導」している。
省エネはエネルギー削減にはハッピーかも知れないが、
人々の幸せにとって、それ自体が幸せなのではない。ズレがある。
人々はエネルギーを使って得られる営為のなかに幸せを感じているから
エネルギー消費の方向に一斉に向かうのだろう。
省エネということが、金銭的な意味での「トク」ならば理解出来るけれど、
人類社会と言われても、個人としての省エネモチベーションは上がらない。
どうもここの点が、どのような考え方からも
なかなか救済されるような道が見えてきていないのではないか?
省エネへのモチベーションについて、
個人レベルでのメリットというものが、どうも自罰的なものにとどまっている。
思想の怠慢とでもいえるような状況が現在ではないだろうか。
人類社会史でのある時期、熱病のように「宗教」が果たしていた意味に似た
それで人が救われる思想的必然性が求められる気がしてならない。
それを解決するのが、ZEH補助金というのでは、
社会全体としてのお金の使い方がどうも違っている。
ZEHについて考えていて、いつも気付くことなのであります。
by replankeigo
| 2016-06-05 07:55